COMPANY
昭和20年代
昭和22年5月、終戦後の復興期に、森本多三郎(当時、鹿島組常務取締役)が三和木材工業を創立。
「安定した地位に甘んじるよりは、男一匹好きなことを思いっきりやってみたい。その成果を後世に伝えたい」
戦災を受けた工場鉄骨の再利用に着手する。お陰で、鋼材の入手難が解決し、しかも低価格で鉄骨製造物を製作できた。
昭和22年日立造船(株)桜島工場の復興工事を受注。
古鉄骨需要は、昭和30年頃まで続き、創設期における会社の基礎固めとなった。
昭和23年に、社員会が結成される。
会社設立が5月なので、「さつき会」と名づけられ現在にまで受け継がれている。
杉村倉庫の土木工事が足がかりとなり、
総合工事の会社経営の見通しがつき、昭和23年10月16日、社名を三和建設工業株式会社に変更、社員より社章の図案を募集し、三和の頭文字のS、建設の建の図案化、工業の工の図案化をあわせ社章が決定した。
昭和25年、後の三和建設常務岡本定一が、親しかった多三郎に寿屋を紹介し、その後、信頼関係を築き、サントリーの発展とともに、受注拡大に繋がっていく。
多三郎は、社員の仕事に対する取り組み指導を行い、与えられた仕事は常に施主の立場になって、誠心誠意取り組むように教育した。社員も素直に実践し、この社員の姿勢が当社の財産となり、広く長く得意先の信用を繋ぐこととなった。
昭和22年4名の社員数は、昭和25年位から毎年4~5名の新規採用をし、20年代末には40名に達した。
昭和30年代
昭和31年八幡溶接棒株式会社福知山工場で、新鋼材軽量形鋼を使った日本最初の工場を施工。この新素材を使い、内装の伴う一般建設物の施策として、手狭になった木造社屋を建て替え、全国初の軽量鉄骨造事務所が昭和32年4月に完成。
その後、軽量鉄骨は全国でブームになり、この実績を活かしていった。
寿屋・山崎工場、製麦工場新築工事は、昭和34年度、日本建築学会賞を受賞。
併せて多三郎は、竣工式で後のサントリーの社長となる佐治敬三氏から感謝表彰を受ける。
昭和31年将来を見越して東京事務所を開設。同時に京都営業所も新築。
昭和34年10月、関東での鉄骨自社製作を主目的として、埼玉県川口市に川口工作所を開設した。
昭和40年代
流通倉庫の時代に当たり、合理的なラック式の研究開発を日本ファイリングと実施。
昭和42年5月、日本ファイリングスカイラックシステムとして完成。
その後、小型H鋼を主体とした当社企画立案のラック式倉庫が大きく花を咲かせた。
三和ラックシステムビルと名づけパンフレットも作成され、17年間で25件を受注。
昭和44年頃は、業績好調で業界の業績3羽ガラスと言われ、本格的な社屋建設に踏み切った。昭和45年1月に新社屋が完成。
竣工披露パーティーにはたくさんの方々の列席をいただき、披露宴会場の前に立てた金屏風の前には、多三郎の晴れ姿が一日中続いた。
昭和50年代
初代社長森本多三郎の長男である晴夫が社長に就任。
創業以来、当社は堅実をモットーとしてきた守りの会社だったが、不況に負けない攻撃的な体質を併せ持つべきであると考え、営業部の強化、旧得意先の情報掘り起こし、新規得意先の開拓と、工事の獲得を最重点課題として取り組む。
関東の建築市場規模の大きさに着目した人事強化などの機構改革により、東京支店は着実に成長。
念願であった東京支店は、新社屋が昭和58年4月、荒川区に完成。
昭和60年代~平成へ
昭和62年5月当社は、創立40周年を迎え、本社敷地で、記念式典を盛大に開催。
全社員と家族を招待し、遠くは九州鹿児島からも来ていただいた。本社事務所では、仕事で活躍する社員の姿を見ていただこうと様々な写真を展示した。メイン会場のステージは、大いに盛り上がる。晴夫は、締めの挨拶で、社員を支える家族に対して敬意を表した。
全天候型現場仮設屋根 ハレルヤボーイも考案され、特許を取得した。
平成7年1月17日午前5時46分突然の揺れに襲われる。
死者6400人あまり、被害総額10兆円と史上最悪の災害、阪神・淡路大震災の発生、得意先にも死者の発生、建物への被害と次々と連絡が入った。
道路、交通機関寸断で、社員の通勤もままならない中、即日、復旧工事に取り掛かり、2日後の1月19日には、社内に災害対策本部を設置。本部の指揮のもと、被害地復旧に向けての社員総動員体制が出来上がった。
建設作業服で被災地に居ると、何かと頼られ、建物の相談をたくさん受けた。
毎日遅くまで、身体は疲弊したが、我々の技術が必要とされ、ほこりとやりがいを感じた。
この頃数多く施工したRCマンションの経験は、若手教育に留まらず、当社の技術力底上げに大きな役割を果たし、後の当社RC集合住宅施工の原動力となる。
京都支店では、数多くの郵便局の新築工事が続いた。
郵政事業が民営化されるまでそれらは続き、京都支店の特徴のひとつとなった。
平成4年に創立45年を迎えた当社は、全社員で初の海外台湾旅行を催行し式典を執り行った。
創立50周年記念式典は、全社員でオーストラリアへ行った。
平成10年代
平成11年年末、ISO9001を取得した。当時、建設業界では大手企業は取得していたものの、当社規模の企業では早いほうだった。
平成2年に拡張工事を終えたサントリー食品工業宇治川工場は、「21世紀になったら敷地を拡張し、製品倉庫の拡張と生産ラインの拡張を行う」といっていた。
その世紀を越えた計画が固まり、遂に着工を迎えたのである。
本社移転に伴い、企業イメージチェンジを行うことにした。
コーポレートカラーをブルーからオレンジに一新。若々しくて温かみのあるイメージとし、ロゴマークも変更。
再び篠塚氏に依頼。Sの字をあしらい、「調和」をイメージし、上と下でしっかり結び合ったデザインがこれからの当社のイメージにぴったりだった。
平成13年ソレイユシリーズを皮切りに、分譲マンションの施工を手掛けるようになった。
以後、6年間で10物件の分譲マンションの施工実績をつくった。
倉庫や工場の施工技術を活かし、鉄骨造の大型商業施設の建設受注に積極的に動いた。
なかでもヤマダ電機神戸本店は、これまでの常識では不可能と言われるような短工期、施工は24時間稼動交代制で行った。躯体・外装・内装それぞれに所長クラスを配置し、多いときには、200人を超える職人が作業をする大きな現場は見事ひとつにまとまった。
8月2日最大規模の店舗となったテックランド神戸本店が無事オープンした。
平成17年ルネス工法の特許使用権を獲得。
ルネス工法による賃貸マンション市場への提案型営業は、当社にとって、新たな受注構造の改革をもたらした。
平成17年に、サンプラザ少路駅前ルネスマンション受注以来、着実に実績を伸ばした。
わずか3年足らずで、全国の加盟店70社のうち堂々第2位による受注実績によるシルバートロフィーを受賞した。
平成19年5月当社は創立60周年を迎え、全社員で香港に渡り創立60周年記念式典を行った。
平成20年代
平成20年9月、我々の新しい取り組みがまた実を結ぶ。
従来の単なる価格だけの入札ではなく、新しく取り組まれている総合評価方式で、我々の提案が高く評価され、京都市立東山区北部小中学校の新築工事を落札することができた。
平成20年10月、31年間社長を務めた森本晴夫に変わり、森本尚孝が社長に就任。三和建設は新しい力を身につけた。
自社企画ブランド"エスアイ200"が、国土交通省による平成21年度長期優良住宅先導的モデル事業として採択を受けた。
三和建設が積極的に提案してきた住宅のあり方が、国からも公式な評価を得たことになる。
平成21年度に引き続きエスアイ200が平成22年度長期優良住宅先導的モデル事業に連続採択。
賃貸共同住宅新築部門での連続採択は唯一であり長期優良賃貸住宅のNo.1としてスケルトンインフィル賃貸住宅において不動の地位を築いた。
東京都目黒区に資産経営のアンテナショップとして「三和目黒オフィス(SMO)」を開設。
土地活用の相談をセミナー、ワークショップを通じて地域密着を図るとともに、オーナーばかりでなくユーザーのニーズを深く理解することに努めている。
京都府伏見で地域密着スタイルにより賃貸管理・仲介・土地活用提案をリードしてきた長尾管理株式会社を三和建設グループに迎え、土地活用のご提案から建設・募集・管理までをワンストップで提供できる体制を強化した。
平成24年には高品質な食品工場づくりのためのFACTAS FOODSをはじめとするトータルソリューションブランドFACTASを立ち上げ全国の食品会社にアプローチを開始。
平成25年からは「食品企業経営者向けセミナー」を無料開催している。
平成25年4月、開設50周年を迎えた東京支店を首都圏地区の営業(及び設計・施工)を従来以上に強化するため東京本店に昇格。大阪本店・東京本店の二本店制に移行。